【小説】大丈夫

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「ダイジョウブ、ダイジョウブ」

(あま)(みや)(しん)(いち)が現場に着くと、そんな声が聞こえて来た。若い男性の声だ。

近くに停車して、運転席から降りる。

夜明け前まで降っていた雨のせいか、空気が冷たい。

日は射していたがまだ春は遠く、襟巻の逞しさに安堵する。作業着に身を包んだ数人の男たちに向けて、真一は声を発した。

「お疲れ様です」

瓦屋根が並ぶ古い町並みの一角で、中規模のショベルカーがごんごんと唸りを上げている。甍の波の中、黄色い重機はそれなりに目立つ。キャタピラが踏みしめる地面はぬかるんでいた。革靴でその地に踏み入るのは少し躊躇われたが、道端からでは会話が届かない。

それに、この解体現場の施主は真一自身である。

靴くらい汚れたら洗えばいいしな、と真一は歩き出した。

木材の破片や、よくわからない礫が混じった地面を進む。柔らかめの土を踏み、真一の足元が大きく沈んだ。

「危ないっすよー!」

重機の運転席から声が飛んだ。慌ててバランスを取り、真一は「大丈夫、大丈夫」とそちらに笑う。

道路に向かってホースで水を撒いている青年が、真一の言葉に続けて「ダイジョウブ」と言った。上下が繋がった所謂「ツナギ」という作業着を着ている。腕捲りをしているため、肘が露出している。水で袖が濡れないようにだろうか、と真一は推し量る。それにしても寒そうだが。

「ダイジョウブ」ともう一度、青年は言った。

断定したのか質問したのか、よくわからない言い方だ。声に振り返ったものの、その若い男性は真一を見ても首を傾げるだけだった。

「休憩すっかー!」と重機の中から銅鑼声がした。

エンジンを止め、ショベルカーから中年の男が降りてくる。他にも作業をしていた二人の男性が真一に近づき挨拶した。持参したペットボトルの茶を真一が渡すと、男たちから礼の言葉が返ってくる。保温バッグに入れていたので、まだ温かい。剥がしきれていない建物の基礎部分に、それぞれが腰かけて茶を飲んだ。持参した茶菓子も配る。

「雨宮さん」と黒糖饅頭を頬張りながら、髭面の中年男が真一に呼びかけた。この現場の責任者だ。真一ともすっかり顔馴染みである。

「どうっすか、奥さんの具合は」と髭面が問う。

「ありがとうございます。ただの風邪だったみたいで。熱も下がりましたし、大丈夫です」

「そりゃあ、良かったっす」

家族環境まで喋るほどの付き合いになっている。それなのに真一の方は、この現場監督の正しい名前を知らずにいる。ヘルメットには平仮名で「かわい」と書かれている。果たして「河合」さんなのか「川合」さんなのか。「河井」さんかもしれないし「川井」さんかもしれない。いや「川居」さんという可能性もある。真一は高校で国語を教えている。教師として様々な学生の名を日々扱うせいか、それとも国語教師ゆえなのかはわからないが、漢字は気になった。自分は初対面で名刺を渡したときに、名字の「雨宮」は「あ()みや」と読む、と言ってある。まあ別に「あ()みや」と呼ばれても返事はするのだが、どうせなら正しい方がいいに決まっている。些細なこと、と笑い飛ばすような豪儀な性格はしていないので、他人の名前だって気になるのだ。気にはなったが、ここまで親しくなると今更聞けないこともある。

「ところでカワイさん」と真一は漢字で書く機会がないことをいいことに平然と、しかしせめて親しみを込めて名前を呼んだ。

「あの人は」

 先ほどまでホースで水を撒いていた若者を見る。

舞う粉塵を抑えるために、建築物の解体現場で水を撒くことは知っていたが、季節的に冷たい思いをしているだろうなと考えた。少し離れたところで一人、煙草に火をつけている。カワイさんたちの輪に加わろうとはしない。

「あれはベトナム人っすよ」

「ベトナムのかたですか。この間から時々お見かけしますね」

「真面目に働いてくれるっすよ。ただ言葉がまだよくわかんなくってね。通じにくいんっすわ」

カワイさんは「おい、クオン、お茶飲むか!」と声を張り上げた。

煙草から唇を離し、彼は首を傾ける。

「お茶!もらったぞ!お・ちゃ、飲・む・か、クオン!」

カワイさんがペットボトルを掲げて軽く振り、言葉を区切って叫んだ。

「クオンさんとおっしゃるんですか」

なかなか良い名前だ、と真一は感じた。

クオンは薄く笑い「ダイジョウブ、ダイジョウブ」とだけ言った。そしてまた煙草に口をつける。カワイさんは「埒が明かねえ」とクオンの傍に行き、その手にボトル茶と饅頭を押し付けた。クオンは驚いた顔でカワイさんを見上げ、真一を見て、やや頭を下げた。軽く会釈を返す。言葉は交わさなかった。

休憩時間が終わり、作業が再開されてからも暫く、真一は現場にいた。

邪魔にならぬよう、隅の方で眺めていただけだが、その間にクオンは数回カワイさんから怒鳴られていた。

「馬鹿野郎!木材と石ころは分けろって言っただろ。分別して捨てるの!わ・け・る!わかったか!」

「こらあ!そこに煙草捨てるな!す・て・る・な!その前に吸うな!仕事中は吸うな!馬鹿!」

雷鳴のように轟くカワイさんの怒声は、聞く度に真一の方がどきりとしてしまう迫力だ。言葉遣いも荒い。その都度、クオンは「ダイジョウブ、ダイジョウブ」と薄く微笑んで答える。労を厭わず体を動かしているが、カワイさんの言葉を理解するのに難儀しているようだった。他の作業員らと会話する場面はなかった。

真一が「お願いします」と挨拶して去るときも、カワイさんと他の作業員は答礼したが、彼だけは黙々と瓦礫を運んでいた。

帰宅後、妻の様子を見ながら、真一はパソコンに向かった。技能実習生だのベトナム語会話だののサイトを流し読みしていると、「退屈になった」と妻の歌子がベッドから起きて来た。

「元気になって来た証拠だな」と真一が食事の支度をし、二人で炬燵に足を入れる。

雑炊を匙で掬いながら「解体、どんな感じ?」と歌子が尋ねた。

「もうほぼ建物はなくなったよ。井戸の浄化も済んだし、三月までに終わるかもしれないね」

「来月はお父さんの三回忌だもんね」

「うん。まあそれまでには」

入院が長引いて、結局そのまま逝ってしまった真一の父を、二人は暫し想った。空き家となってしまった父の家を解体すると決めたのが去年の夏。実際に作業が始まったのは今年に入ってからだ。以来、時間のやりくりをつけて、真一はなるべく現場へ通うようにしている。真一は簡単に現状を報告してから、付け加えた。

「ちょっと前から、外国の人が来ているみたいなんだ」

歌子はふうん、と相槌を打ち、

「技能実習生の人?」と聞いてきた。

「か、どうかはわからないんだけどね」

「え?なに密入国?難民?」

歌子が物騒なことを言う。

「極端な発想だな。詳しいことを聞いてないからわからないだけだよ」

「ああ、そういうことね。あなたあまり人と深く関わろうとしないから」

「いきなりの分析だな。僕の性格の問題か、それ。なかなかそういうことは突っ込んで聞きづらいだろう」

「まあ、それはそうね。ただ、あなたがわたしの聞いたこと以上の内容を話してくれることって、あんまりないから。最低限のことは話してくれるけど。だからその人のことが気になったのかなって」

真一は沈黙した。もしかしたら、歌子はさっき起きてきたときに、自分が閲覧していた外国人労働者についてのサイトが目に入ったのかもしれない。

歌子は真一が俯いたのを見て、それ以上は追求せず、

「でもね、珍しく解体現場には足繁くお世話に行ってると思って、実は感心してる」と微笑んだ。

「褒められてるんだろうか貶められてるんだろうか」

真一はわざと巫山戯た言い方をした。

歌子は雑炊をふうふうと息で冷まし、匙で口に運びながら「事実を言ってるだけよ」と言った。「美味しい」と喜ぶ。作った食事に舌鼓を打つ妻に、真一は目を細めた。

「言葉があまり通じないらしくてね、だから話もできないってだけで」

「うんうん。大変よね、外国に来てよくわからない言葉の中で働くんだもの。わたしは無理。でも体はもう大丈夫。明日は床上げよ。ほんとこの雑炊美味しい。また作ってくれる?」

いろんなことを言われた。真一は苦笑しながら「それは良かった。ありがとう、いつでも作るよ」と応え、クオンという名のあの青年が、これだけ一度に話しかけられたらさぞ困るだろうと思った。

薄く笑みながら「ダイジョウブ」とだけ喋る彼を想起する。歌子もたった今「大丈夫」と言った。真一も現場で土に足を取られながら同じことを言った。この国でよほどよく聞く言葉なのだろうか。それとも。

本当に。「ダイジョウブ」なのだろうか。

真一は彼の顔を思い浮かべ、能面の葵上を連想した。微笑んでいるようで、どこか表情のない薄い笑み。歌子が眠った後、真一は再びパソコンに向かった。

妻が回復してから三日後、真一は現場へ行った。

瓦礫は随分と片付いて、整地しながらゴミを拾っている、という状況になっていた。

カワイさんと年配の男性、そしてクオンがいた。ショベルカーは土を掬うだけではなくて、地面を叩いて均すこともするらしい。相変わらず運転席にいるのはカワイさん、他の二人は細かい仕事をしていた。カワイさんが真一を見つけて「休憩すっかー!」と叫んだ。

缶珈琲と、頂き物のマドレーヌを振る舞うと、大層喜ばれた。

クオンは今日も人の輪に入らず、一人で煙草を喫んでいる。真一は何気ない風で近づきながら、軽い調子で話しかけた。

ただし、ベトナムの言葉で。

「こんにちは。クオンさん。お仕事お疲れ様です」

たったこれだけである。これだけを何も見ずにすんなり言えるようになるのに、真一は三日もかかったのだ。返答として寄せられるかも知れない言葉もシミュレーションし、それらも聞き取れるよう準備していたら意外と日数を食ってしまった。なるべく自然に話しかけたつもりだったが、このときだけは襟巻を暑く感じた。

クオンは目を見開いて煙草を取り落とし、真一が「吸殻、吸殻」と慌てる前に、ものすごい速さで何かを喋り出した。

立ち上がると、真一と同じくらいの高さに目線があった。

両目が真一を真っ直ぐ見つめている。見たこともないような輝きだ。何かをものすごく期待している目だ。瞳が零れ落ちそうである。

口からは怒涛のように異国語が溢れている。当たり前だが真一には何一つ聞き取れない。

異国語が滝だ。ナイアガラの滝だ。滝に呑まれる。滝壺に落ちる。真一は背中にびっしょり汗をかいた。

なんだなんだとこちらへ歩いてくるカワイさんの気配がする。

「ごめんっ!」

真一は叫んだ。

「ごめん、君の言うことわからないんだ。僕はちょっと調べて、ただ、遠いところから働きに来て、僕の依頼した工事現場で働いてくれて、その、何か一言と思って・・・」

真一はしどろもどろになってポケットからスマホを出した。

「待ってくれ、今、僕より賢いAIさんに翻訳してもらうから」

後ろでカワイさんが笑った。クオンは真一の手元を見て、何かを察したように喋るのをやめ、しかし瞳の輝きは失わないままに真一の横に立ち続けた。

スマホの翻訳アプリは真一よりずっと有能だった。真一たちは休憩時間中ずっとスマホに話しかけ、スマホが相手の言葉に翻訳してくれる間は相手の顔を見続けた。

勿論、大した話はできなかった。クオンは日本の冬を寒いと言い、日本は清潔だと言った。甘い缶珈琲が好きだと言った。

真一はひたすら彼の頑張りを賞賛し、健闘を祈るようなことしか言えなかった。

外国人労働者から見て日本は住みやすいところなのか、何か大変な思いはしていないかなんて話は、カワイさんの前でできる話題ではない。それに真一がどうにかできることなど何もない。

ひとつだけ。

真一が最初に「好ましい」と感じた彼の名前について語った。国語教師なんてしているせいか、言葉にすぐ漢字を当て嵌めてしまう癖がある。そのときも真一は、日本名ではない彼の名を、頭の中で勝手に漢字変換していたのだ。

クオン。

久遠。

「永遠、とこしえに、という意味があるんですよ。日本の文字にすると。なんだか素敵な響きだなと思いました」

なんとか伝わらないかと懸命に言葉を尽くす真一を見て、クオンは頷いてくれた。伝わったかどうかはわからない。だが「良い名前だ」というニュアンスくらいは届いただろう。

クオンは初めて「ダイジョウブ」以外の日本語を喋った。

好きだという缶珈琲を飲んで、真一に

「ゴチソウ、サマ」

と言ったのだった。

それから更に数日。

「今日は手ぶらで申し訳ない」と恐縮して現場を訪れた真一に、カワイさんが「とんでもねえっす」と大仰に手を振った。

「いつもご馳走になっちまって」

真一は周囲を見渡す。随分と地面が綺麗になっている。今日は人数も少なめだ。クオンもいない。

「今ちょうど運搬組と買い出し組で出払ってるっす」

カワイさんがそう話した。整地は随分進み、次はこの上から更に土を補充して綺麗にするとのことだ。土が到着するのを待つ間、クオンはスーパーに全員分の飲み物と菓子を買いに行っているという。

「あいつは車の運転ができねえっすから。走って行ってるんで、ちょっと時間食ってるっすわ」

現場から一番近いスーパーは、車でも二~三分はかかる。この寒空の中を駆けて行っているらしい。

程なくレジ袋を片手にクオンが戻って来た。

「おう。ご苦労さん」とカワイさんが顔を向ける。レジ袋をカワイさんに渡しながら、クオンは不安げに真一の顔を見た。

「こんにちは。クオンさん」と、真一はどうにか言えるようになった彼の国の言葉を紡ぐ。

それにクオンも自国語で挨拶を返す。だが心配そうな顔色が消えない。

いつもと違う表情に真一も気付きはしたが、「どうかしたのか」という意味の言葉はすぐに思い出せなかった。同じように真一が表情で様子を問うと、クオンはツナギのポケットから何かを取り出した。

文庫本カバーのように見える。困った顔でそれを渡してきたので、真一は受け取って開いてみた。
通帳ケースだった。

中に入っていたのは、総合口座通帳が一冊、積立定期預金通帳が一冊、そしてキャッシュカードが一枚。そのどれもに記された名前が日本人名であり、クオンの名前ではない。

「これは?」と日本語で尋ねる真一に、クオンは精一杯の日本語で「スーパーで拾った」旨を伝えた。

「そりゃ持ち主探してるっすよ」とカワイさんが驚く。

真一も頷いて言った。

「サービスカウンターに届けた方がいいですね。一度持ち帰っちゃったから面倒なことにならなきゃいいですけど」

「あんまり時間置かねえほうがいいっすよねえ。ただ、これから土運んでくるんすよね。俺が此処にいねえとちょっと」と言い淀むカワイさんに「大丈夫。僕がクオンさんと行ってきますよ」と真一は答えた。

「僕だけで行っても構いませんが、拾った人に細かい場所とか聞くかもしれませんし。大丈夫ですか、クオンさん暫くお借りしても」

カワイさんは「そりゃ願ってもねえっす」と快諾した。

真一は自分の車にクオンを乗せ、短い道行きでどうにか「これから拾った物を届けに行くのだ」という状況を説明し、スーパーに赴いた。

サービスカウンター内の店員は電話の応対中であった。他にも数人の店員がいたが、全てレジ打ちに回っている。相手をしてくれそうな者はいない。少し待つかと思ったが、電話の内容が気になった。

「はい、はい、ATMのところですね。はい。ケースに入っているんですね」

深刻な顔で店員が電話の相手に頷いている。

「はい、通帳が二冊とカードが一枚」

真一はクオンに持たせた通帳ケースを見た。確かこれには通帳が二冊とキャッシュカードが一枚入っていた。

「はい。緑色で。えっ。色は茶色いんですか。茶色に緑の模様が入ってるんですね」

クオンの手の中のケースは、ブラウンの地色にグリーンの唐草模様がデザインされている。これはもう間違いないと言ってもいいんじゃないだろうか。

所在なさげにケースを抱えているクオンを横に立たせ、真一は電話に応えている店員の視界に入るように片手を振った。日頃の真一なら、電話中の人間の邪魔をしたりはしない。だが今だけは特殊な状況だと判断する。しかし店員は真一に気付かず、電話相手に少し待つように言った。

「今から見てまいりますから。少々お待ちください」

そうしてレジを担当している店員二人ほどに「ちょっとここお願い。いま電話で通帳をATMに忘れたって人がいて、見てくるから」と言って走り出しかける。

ところがレジ担当は二人とも「えっ。わたしサービスカウンターしたことないよ」と慄いている。

「わたしが見てくるよ」「待って、わたしが行くわ」と騒めきだす者たちの中に、いよいよ割って入ろうかと真一が思ったとき。

クオンがやや大きめの声を出した。

「ソコデ、ヒロイ、マシタ!」

目前に通帳ケースを掲げる。

ここで手渡すときにこう言えと、真一が教えた言葉をクオンは見事に暗唱した。

店員たちの目が、クオンの持つケースに注がれる。ケースの色とデザインを見て、電話を受けていた店員が顔色を変えた。

「えっ。そこ?ATMじゃなくて?」とクオンからケースを受け取る。中身を確認しながら「今ちょうど電話がありまして・・・」と話しかけた。

クオンの返事はない。

真一もそこまでのシミュレーションはしていない。そんな時間はなかったし、そもそも真一の語学力ではそんな芸当はできない。クオンはもう一度同じことを言う。

「ソコデ、ヒロイ、マシタ!」

店員は、クオンが外国人であることを察すると、乾き気味の愛想笑いを浮かべた。

そして、「いま、ちょうど電話が・・・」と呟きつつ通帳ケースを持って電話に戻ってしまった。

レジ前にいた店員たちは顛末を見ていたが、買い物籠を持った客が並び始めたため「いらっしゃいませー」とそちらの対応をし始めた。

クオンの周囲に、真一以外の人間はいなくなった。
クオンに礼を言う者は誰もいなかった。
真一は、クオンを伴ってきたことを激しく後悔した。

なんだこれは。

真一は頭から血の気が引く感覚に襲われた。次には逆に頬が熱くなった。鼓動が速くなり、周囲の音が遠ざかる。手前勝手な期待を抱いていたことを、真一は恥じた。

己が日本人であるという事実が、闇雲に真一を責めるような気がした。こういう思いを、クオンはいつも感じているのだろうか。

真一だって、スーパーの店員が外国語で流暢に対応するだろうなどと思ってはいない。そもそも外見だけで何処の国の人か判断するのは難しいし、全般的に日本人は他国語に長けていない。外国人に弱い日本人だの、外国語に対する教育だの、そんなレベルの話を今持ち出しても仕方がない。この店の看板を背負っている気構えはないのかと、瞬間的に思わなくもなかったが、それも真一の今感じている気持ちとは些か違う。

真一は。

ただ、日本語でいいから「ありがとう」と言ってほしかった。「ありがとう」ならクオンにも通じる。
頭を下げるだけでもいい。
普通に。人間としての礼儀を。

真一が汗を浮かべながら何か言おうとすると、クオンはくるりと反転した。

「ダイジョウブ」

そう言って歩き出す。

「ま、待ってください、クオンさん」

真一の頭の中でいろんな言葉が渦巻いた。

自分が礼を言うか?それとも謝るか?いや、何と言えば良いのだ。言葉が見つからない。そう。自分には彼に伝えられる言葉があまりにも少ない。この国では国語を教えているのに、まるで語彙力がない。自分だって店員のことをどうこう言える資格はない・・・。

「こ、」

それでもクオンの背中に声を投げる。

「・・・珈琲!」

真一の発した言葉にクオンが振り向いた。

「こ、珈琲。飲まないか」

この店で買うのは業腹だったが、クオンも早めに現場に戻らねばならない。車中で飲むつもりで二人分、クオンの好きな甘めの缶珈琲を買った。

外に出ると、一層寒さが身に染みた。暖かいのは懐の缶珈琲だけだ。

車のドアロックを解除したとき、店側から走って来る人影があった。白い息を吐きながら、「すみません、あの!」と真一らに手を振っている。その人物は、助手席の側で立っていたクオンの近くまで駆け寄ると、はあはあと肩を上下させた。乱れた髪と息を整える。

さっきの店員の一人だ。

「あのっ・・・!先ほどは、あの・・・!」

店員は片手にスマホを握っている。
スマホの画面には、真一が数日前使ったのと同じ翻訳アプリが表示されていた。

それを見てクオンは。クオンはあの零れそうな輝く瞳で、

「大丈夫!」

と笑った。

(了)

ご覧いただき、ありがとうございます。2020年に書いた作品です。実話を少しだけアレンジしたお話です。書いた人間が言うのも何ですが、この二人のその後が割と気になる。仲良くなれるといいね。

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