【小説】亡者Aと鬱病天使

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ここは極楽である。
大方のご想像通り、蓮の花が咲き乱れ、天上には妙なる調べが奏でられている。やわらかな風に乗って、虹色の花びらが時折舞い散る。空気はどこまでも澄み、ここに辿り着いた亡者たちはもう何の心配をすることもない。飢えも凍えもせず殊更な問題も起きず、その顔には常に微笑が浮かんでいる。
極楽に来るような亡者は、欲望とか邪念とかそういうものとは無縁になった魂なので、そうして穏やかに平和に時を過ごし、長くても半年くらいでその魂は消滅する。
それは悟りとか達観とかそういう到達点に達するという意味ではない。仏さまになったり、新しく天界の者として羽衣など纏って生まれ変わる、というわけでもない。
満足して文字通り思い残すことなく、あらゆる次元から消え去るのだ。
本当にただ消える。綺麗さっぱり。
ここは極楽だが、その安らかな國で恒久的に幸せに、という世界ではないのである。
ところが、ここに亡者Aという魂がいる。
世界中から珍しい食べ物を取り寄せ、様々な遊びをし、暑さ寒さやあらゆる苦痛とは無縁のこの極楽で、実に愉快痛快に暮らしている。
何年も何十年も。
欲望の権化のようなこの男が、何故この極楽にいるのか私にはわからない。
そういう私も一介の天使だからである。
「あー、天使さま、よーよーよー、ご無沙汰!」
亡者Aが私を見つけて手を振った。美しい花々が咲き誇る庭園。その屋外に無造作に置かれた、豪奢な一人用のソファに座っている。振っていない方の手には江戸切子のロックグラスが握られている。琥珀色の液体の中に星の形をした氷が浮かんでいる。今日もご機嫌のようだ。私は亡者Aに近づいた。
「ご無沙汰ではありません。一昨日も会ったでしょう」
 私がそう答えると、亡者Aは薄紅色の頬で「あっはっは、そうだっけそうだっけ」と笑う。一応、極楽にも昼夜は存在するので、その繰り返しで日数をカウントしている。もちろん、極楽の昼夜なので、その朝陽や夕陽、お月様の美しいことといったらない。
「天使さま天使さま、まあそんなこたあいいじゃん。さ、一杯飲もう!な?一杯やろうよ!」
私に会う度に亡者Aは飲み会に誘う。自分はほぼいつも出来上がっているくせに、何故そこに更に私を加えようとするのだ。それとも社交辞令のつもりなのか。
「私は飲まぬともう何度も申し上げたでしょう。飲んでも私は酔いません。あなたの宴会のお相手にはなれません」
 亡者Aは「へいへい」とか「わかってるよう」などとぼやきながら、グラスを傾ける。
「こちとら、あんたの渋面をなんとかしてやりてえと思ってんじゃねえか。相ッ変わらずこの世が滅びそうな憂鬱顔してよ」
 軽い調子で悪態をつきながら、亡者Aは杯を煽った。喉仏がぐびりと動く。
「またそんな滅入り顔で俺のところへ来たってこたあ」
 亡者Aが卓上にグラスを置いた。シンプルな円卓の上には、今日も各種の酒の肴が揃っていたようだが、今や半分以上が空になっている。この男の腹の中に納まったようだ。
「今日もまた、俺様を地獄に叩き落すってわけだ。違うかい」
 ソファに座ったまま、亡者Aが横に立つ私を見上げる。赤茶けたくせ毛が背もたれの背面に少しだけ流れた。酔っているくせに眼光が鋭い。私は亡者Aから少しだけ視線を逸らした。
「正しくは『地獄』ではありませんが・・・まあ、そうです。あまり日を置かずの仕儀で申し訳ないですが」
「いいってことよ。それに天使さま」
「なんですか」
「あんまり俺に気を遣ってると、背中の羽根が真っ黒になっちまうぜ」
 亡者Aはそう言うと、やにわに私の背中に片手を伸ばした。ぶつり、と音がする。背筋に衝撃があった。結構な激痛だ。
「ほれ」と亡者Aが私に手元を見せる。指先には鴉のような真っ黒な羽根が一枚。
「・・・またむしりましたね」私は痛みのあまり涙目で抗議した。何度言っても亡者Aはこの癖が抜けない。
「いつもこれで終わりにしてくださいと言っているでしょう」
「ご勘弁ご勘弁」と亡者Aが笑う。
 先ほども述べた通り、私は天使である。
 これもまたご想像通り、鳥のような翼が背中に生えている。純白に輝く一対の翼である。たまにこの白い翼に黒い羽根が混じって生えているようで、亡者Aは目ざとくそれを見つけると引っこ抜くのだ。
私の翼の話はさておき。
ここで「いや待て此処は極楽だろう極楽に何故『天使』がいる」と考えている諸兄は正しい。
そう、天使という呼称を持つ者は通常、天国にいる。
天国と極楽とは微妙に異なるようである。「ようである」というのは私が人間の宗教に詳しくないからである。ここで宗教の話を持ち出しても意味はないのだが、天国と極楽は宗教的に異なる、というのが通説らしい。天国には神がいて天使がいる。一方、極楽には阿弥陀如来がいる。しかしそれは、あくまでも生きている人間が考え出した世界である。ここは生きている者の世界ではない。亡者の世界だ。だから極楽かもしれないし天国かもしれない。要するに彼岸だ。
 亡者Aがこの世界に来て一番最初に言った、
「ここは極楽かい」
という言葉を私は採用している。それだけのことである。
 天使である私のここでの仕事は。
時折この亡者Aを『現世』に叩き落とすことである。
亡者Aは『地獄』と呼んだが正しくは現世――生者の世界だ。
「申し訳ありませんが今回も酷いと思います」
 私はそう言って右手に錫杖を出現させた。これも『天使』には似合わぬ術具だがこれが私の得物である。
「いいよ。またあんたも付きあってくれるんだろ」
「仕事ですからお供します」
 亡者Aはソファから立ち上がり、私に背中を向けた。私はその背に錫杖を振り下ろす。亡者Aの姿は、おがくずのように霧散した。

「お母さんごめんなさいごめんなさい」
 高層マンションの一室で、子どもの金切り声が響く。ばしゃばしゃと水音がする。天井の電灯は切れている。さして広くないユニットバスは、既に壁も床も水浸しだ。シャワーは全開で浴槽は満水。ノズルからはざあざあと大量の水が降り注ぎ、浴槽の縁からはどぶどぶと中身が溢れ出している。湯気が充満していないのは、流れる水が冷たいからである。
 浴槽には、幼児が沈められている。暴れながら水面から顔を出し、その度に「ごめんなさいごめんなさい」と叫ぶ。
 幼児の両肩には母親の両手。浮かんでくる度に力を込めて幼児を沈めている母親は、能面のように無言だ。
 やがて幼児は力が抜け、水中でぶくぶくと吐いていた泡も細切れになってゆく。水中ゆえの屈折率で表情は殊更に歪む。
 私は一切の顛末を、母親の背後から見守っていた。
 右手には錫杖。亡者Aを『この舞台』に叩き落した錫杖である。
 幼児の息の絶えたのを確認し、私は母親の頭頂部に錫杖をそっとかざした。俄かに母親は表情を取り戻し、慌てて浴槽から我が子を引き上げる。大声で名を呼び、幼児の頬を叩く。ややあって、がぼりと水を吐くと幼児は咳き込みながらも「お母さん」と母の首にすがりついた。母親が子どもを抱えながら居間の電話を取り、救急車を依頼する。程なく救急隊が部屋に到着し、母親は「気が付いたら子どもが湯船に沈んでいて」と説明する。
 居間での状況を耳だけで伺いながら、私はまだバスルームにいた。浴槽には亡者Aが頭まで沈んでいる。目を閉じて、まるで安らかに眠っているかのように。入水者が全てを諦めた果てのように。その姿は極楽で一人宴会をしていたときの姿とはまるで違う。水中でゆらゆら揺れる赤茶けた髪の色だけは同じだが、年齢は先ほどこの浴槽から救い上げられた子どもとほぼ同じくらいだ。
 小さな子どもである。
 私はそっと水に左手を入れ、子ども――亡者Aを引き上げる。右手には錫杖を掲げたまま。亡者Aは目を閉じたまま、私に拾い上げられた。私は錫杖を持つ手に力を込めた。そして亡者Aの耳元に囁く。
「子どもは助かりましたよ」
 途端、亡者Aは子どもの姿から元の男に戻り、私に支えられながらげほげほと咽込んだ。
「大丈夫ですか」
 大量の水を吐きながら、亡者Aは「な、なんでもねえ。たらふく水飲んだだけだ・・・!畜生、酒ならいくら飲んでも構わねえんだがな」と嘯いた。私が背中を摩るのを亡者Aは差し止め、「さっさとずらかろうぜ」とバスルームの扉を示した。
 居間にいた母親と子ども、救急隊の面々は病院に向かったようだ。子どもの意識ははっきりしていたし、心配はいらぬだろう。亡者Aと私は、誰もいなくなった居間を通り抜け、バルコニーに立った。
「おー。気持ちいい眺めだな」
亡者Aが遠方を見晴らした。高層マンションのかなりの上階である。確かに風景は悪くない。ほどほどの都会。すぐ近くには小学校の校庭らしきものが見える。校門の脇には一際大きな桜がちょうど満開だ。おそらく救急車が向かったであろう中規模の病院も視界内に入る。私鉄の鈍行がのんびりと走る沿線には、商店街と住宅街が混在している。遠くには春霞の中に薄青く滲んだ山々が広がっていた。
「こんないい眺めのところに住んでても、病むときは病むんだなあ。なあ天使さまよ」
 しみじみと呟く亡者Aに、私は言った。
「そうですね。事情は人それぞれでしょう」
「そりゃそうだろうけどよ」
 男は腕組みをし、風景を観望する。私は先を続ける。
「どこでどんな暮らしをしていても。人の悩み苦しみは人の数だけ様々でしょう。それは肉親であろうと、どんなに魂の近しい存在であろうとも、推し量れるものではありません。誰がどんな理由で悩んでいるか、病んでいるかはわからぬもの。けれども」
 私はそこで言葉を区切った。
「けれども、どんな状況に置かれようと」
 亡者Aが私を見た。
「親の立場にある者が、子どもを殺していいわけはない。これはあなたのほうこそ主張していたことだと思いますが」
 ふん、と亡者Aが鼻を鳴らす。
「当然だ。そいつは議論の前ってもんだ。ただな。こうしてあちこち行ってるとよ。のっぴきならねえ事情ってのもたまにはあるもんだと」
「事情は人それぞれですよ」
「ほれ。あんたさっきもそう言った。だからその事情がどうしようもなくて、仕方のねえものだったとしてもか、って聞いてるんじゃねえか」
 亡者Aは腕を組んだまま私を見据える。この男の眼光は本当に時に鋭い。鋭いが――今、この問いを発している亡者Aは、自身も迷いながら私に問いをぶつけている。そんな気がした。私は亡者Aの瞳を見つめ返した。
「私の言う『事情は人それぞれ』という意味は、『だから殺してもいい』という意味ではありません。確かに事情は人それぞれ。やむに已まれぬ事情もあるでしょう。無理難題が過ぎて解決できずに凶行に奔ることもあるでしょう。それぞれの事情を聞けば滂沱が止まらぬこともございましょう。それゆえに。だから私はそんな『それぞれの事情』は考慮しないと申し上げています。殺される子どもにとっては、そんなことは意味のないこと。子どもを殺そうとする親ですら解決できぬ問題を、殺される側の子どもが解決できるでしょうか。子どもさえ殺せば解決すると思い込むほど追い込まれた親の精神状態が、果たして子どもが死んだ途端に解放されるものでしょうか。あなたは子どもに『やむに已まれぬ事情』ゆえ殺されてくれぬかと言えますか」
 亡者Aが、ふっと微笑んだ。
「言えるわけがねえ」
 バルコニーに吹くやわらかい春風は、亡者Aの赤茶けた髪と、私の白髪を同じように揺らした。
「ようく、わかってたんだがな。ちょいと聞いてみたくなった。まあそう小難しい顔をすんなよ、天使さま」
 また悩み過ぎて黒羽が生えてくるぜ、と私の背を指さす。また羽根をむしられるのでは、と私は少し身を引いた。
「私は元からこんな顔です。個人的見解を述べただけですのでお気になさらず」
「じゃあついでに聞かせてくれや。さっき、この部屋で子どもを殺しかけた母親はどうなる」
 亡者Aが室内を顎で指した。
「寿命が尽きれば、それなりに裁かれるでしょう。臨終までに過ごした残りの人生の生き方によってそれはまた変わるでしょう。私にはそれしか申し上げられません」
「誰が裁くんだい」
「ご自身の魂に裁かれます」
「閻魔さんとか神さんとかじゃなくて」
「ご本人様の良心に裁かれます」
「それってよお」と亡者Aは首を傾げた。
「なんか前にも聞いた気がするけどよ。おかしくねえ?だってよ。とんでもなく酷えことしても平気で生きてる連中は大勢いるじゃねえか。そいつらに良心なんかあるのかい。例えば俺。俺は毎日極楽で好きに飲み食いしてっけどよ、それで申し訳ねえなんて思ったことねえぜ。俺は生きてた頃のことなんざほぼ覚えてねえけどよ。とにかく酷い死に方をしたんだ。酷い目にあったってことだけは覚えてら。でもどうせ碌な奴じゃなかった。今こんな自堕落な奴なんだからな。けどそんな俺でも、地獄には墜ちずに極楽で長らく楽しく暮らしてるときてる。これ、帳尻は合ってるのかい」
「帳尻というのはどういう意味ですか」
「地獄いきの魂と極楽いきの魂の天秤だよ。それっくれえ察しろよ天使さま。いっつも俺ごときに変な気を遣うくせに」
 そう言うと、亡者Aは溜息をついた。
「つまりな。俺みてえな人間は思うんだよ。悪い奴はちゃんと地獄いきになって、頑張った奴や可哀想な連中は極楽で救われてるのかって。良かろうが悪かろうがそれなりに報われてるのかってさ」
「それはその魂の良心が決めることです」
「あのなあ」
 埒が明かねえ、と亡者Aは苛立たし気にバルコニーの手すりを叩いた。
「こうして一仕事終わった後にあんたとしゃべってると、最後は必ずこうだ。日頃絶望した幽霊みてえなツラしてるあんたが、ちょいとばかりおしゃべりになる。で、もうちっと突っ込んだ話をしてみりゃ――肝心のところをはぐらかしやがる――あんたにも事情ってものがあんのかもしれねえが、いいじゃねえか。どうせ――」
 亡者Aは、赤茶色の髪をばりばりと掻いて。
「どうせみんな忘れっちまうんだから!」と吠えた。
 極楽への道が開きかけている。
 次元と次元の狭間が。
 何気ない高層マンションのバルコニーの向こうに。
 私はいつもこの瞬間、この亡者Aに肚の中をぶちまけたくなる。今だけなのだ。亡者Aと私がこうして腹を割って話せる瞬間は。
 亡者Aは日頃、極楽で好きに暮らしている。
 この世のあらゆるところから、珍しい酒を取り寄せ、旨い肴を並べ、歌ったり遊んだり眠ったり。一人で飲んでいるときもあれば、極楽に流れ着いた年端もゆかぬ子どもと児戯に戯れていることもある。一見怖そうに見える亡者Aだが、子どもにはよく懐かれる。面倒見も良い。私が偶々そこを通りすがると「天使さま天使さま。審判やって」と腕を掴まれる。それは卓球だったりボウリングだったりおはじきだったり相撲だったり。人数が大勢だったときのサッカーには参った。十一人対十一人を一人で審判する競技など無茶が過ぎる。大変な重労働であった。
 そんな好きに暮らしている亡者Aを、私がこうして時折『現世』に突き落とす。
 親が子を殺そうとしている現場に。
 その子どもの代わりに殺される役割として。
そのときだけ亡者Aは、酷い目にあって泣いている生者――虐待されている子どもの痛みを引き受ける。その子どもの最後の、正に死ぬほどの痛みを一身に受けるのだ。
私の役割は、亡者Aの魂を子どもに同化させ、子ども自身の魂を一時眠らせることだ。眠った子どもの魂は痛みを感じず、惨事があったことすら記憶していない。
そして亡者Aは死ぬ。
その子どもの代わりに死ぬ。
私は亡者Aが死んだことを確認すると、凶行に及んだ親の良心を覚醒させ、可能な限り状況を回復し親子関係を修復させる。ここが勘所である。子どもが酷い目に合っていたのは、親の仕業だったということを親の記憶からも消さねばならない。でないと親子の今後が何かと面倒なものになってしまうからである。
そうして亡者Aは断末魔をあげながら極楽に戻る。そしてまた楽しそうに食い散らかすのだ。
今のこの一瞬は、極楽に戻る直前の、正に刹那なのである。次元と次元の狭間にいる亡者Aと私は、全ての出来事を知覚している。しかし極楽に戻れば、この亡者Aはこれらの一切を忘れてしまうのだ。
自分が子どもの身代わりに殺されたという事実は認識しており、それを承知で現世に落とされているのだが、ではどんな暴虐を受け、私と何を話したかなど細かい事象は忘却してしまう。
私は時々、あの彼岸は極楽などではなく、極楽という名の地獄なのではないかと思う。そして私は天使などではなく獄卒なのではないかと。
もちろん私の妄想だ。そうは思うのだが、そう考えると辻褄が合うのだ。亡者Aは定期的に、真実死ぬほどの苦しみを受ける。人間は痛みや苦しみを繰り返すと、それにある程度慣れてしまうものだという。だが亡者Aの苦悶は都度リセットされる。体験する度に苦悶の種は異なり、亡者Aは聞くもおぞましい末声を上げる。私は間違いなく彼が死んだことを確認し、亡者Aの魂を引き上げる。そんなことがもう何回続けられているだろうか。私でさえ数は覚えていない。そのような苦しみを受け続けながら極楽に留まっている亡者など他にいない。皆、平和に穏やかにゆったりと消えていくのだ。そして亡者の魂をそのような『地獄』に叩き落とす仕事をしている天使も他にいない。私だけだ。この連鎖が亡者Aに対する無間地獄で、私がその役務についている獄卒なのだとしたら筋が通る。でなければ私は天使としてよほど貧乏籤を引いたとしか思えない。
その魂の良心がその者自身を裁く、というのは真実だ。
これが無間地獄なら、亡者Aは亡者Aの意志でそこに墜ちているということになる。
こんな誰にも言えぬ、誰にもわかってもらえそうにない妄想を、私はここぞとばかりに亡者Aにぶちまけたくなる。この事実を私と同じように認知している者が、今ここにいる刹那の亡者Aしかいないからだ。
私が常のように思い悩んでいるうちに。
道が開いた。
亡者Aと私は、共に再び極楽に戻った。
「おい。また黒羽はえてんぞ」
と、戻った途端に、亡者Aが私の羽根をむしった。人間が「白髪はえてんぞ」というのと同じ口調で。同時に背中に衝撃。
私は「痛いと言ったでしょう。やめてくださいと何度言えば」と文句を言いながら、真っ白な翼の中に一枚だけ生えた黒い羽根をむしられた。
「本当に、これで終わりにしてください」と私は涙目になる。
「目についちまうんだから仕方ねえだろ。あんた、また何を悩んでんだよ。ひょっとしてあれか。最近多いっていう、メンタルの病か。なんだかやたら画数の多い漢字だったよな――ええと。そうそう」
黒羽をふっと風に散らせながら、亡者Aが笑った。
「鬱病だ。鬱病天使だ」
 亡者Aは軽々と先へ歩き出す。
「俺と違って気苦労が多いのかねえ、あんたは。まあ少なくとも俺なんぞには気を遣わず、気楽にやんなよ。俺はこの通り呑気に暮らしてんだからさ」
 振り返って呵々と笑う。
「なんか語呂がいいな。鬱病天使。はは」
嗚呼。もう記憶がない。
いつもの極楽蜻蛉だ。極楽蜻蛉という形容を地でゆく亡者にそんなことを言われると更に私の陰鬱は増す。誰が鬱病天使だ、と些か苛立ったが口には出さない。半分は当たっている気がするからだ。多分、この黒羽は本当に人間の白髪に該当するのだろう。いつか背中の翼が真っ黒になり、白い髪も全部黒くなってしまうかもしれない。白い翼と白髪の天使が、黒い翼と黒髪になったら――そうなったら私はどうなるのだろうか。
何故か私はいつもそこで思考が停止する。
そして違うことを考える。
この亡者Aは、一体何者だろう?
どう考えても地獄行きの欲望快楽主義者なのに、戻る先は極楽だ。極楽に来るような亡者は、欲望とか邪念とかそういうものとは無縁になった魂なので、そうして穏やかに平和に時を過ごし、長くても半年くらいでその魂は消滅する――筈なのだ。しかしこの亡者Aは。
平和に穏やかに――消えない。
「だって俺は酷い目に合って酷い死に方してここに来たんだぜ――生きてた頃のこたあよく覚えてねえが、酷え死に方したことだけは覚えてるんだよ。だったらすぐに消えたりしねえで、ここで長く楽しく暮らしたいじゃねえか。あんなに酷い目にあったんだから」
酷い目――というのは、私が叩き落とした『現世』で同化した子どもの惨状ではない。それが亡者Aの記憶に残らないことは先ほどの通り確認済みなのだ。亡者Aが述べるのは、亡者Aが亡者Aになる前、この男が真実生きていた頃の話である。
ではどんな酷い目に合ったのか尋ねても「忘れた」と言うばかり。
「忘れたよ。だってここ極楽だぞ?極楽にいる亡者が、そんなつらい過去を覚えてたら悲惨じゃねえか。楽しく暮らせねえじゃねーか。だから俺はあんたに突き落とされる『現世』のことだって忘れちまうだろ。尚更そんな昔のことを覚えてるもんかい」
 その話が出る度に、亡者Aはそう語り、決まって私をじっと見つめる。
「あんただって覚えてねえんだろ」と。
 亡者Aはすたすたと歩き、自分用と決めている豪奢なソファに再び腰を下ろした。円卓には既に酒とご馳走が揃っている。亡者Aは酒器に手を伸ばし、大吟醸と書かれた瓶から直に中身を注いだ。とりあえず冷やで一杯、といったところか。
亡者Aの言質にもいちいち道理はあるような気がするのだ。だが私も今日はしつこく尋ねてみた。
「楽しく暮らしたいくせに、何故あなたは現世の苦しみを受難するのです?定期的につらい思いをしたいと言い出したのはあなたのほうからだと聞いていますが」
「あー。それな」
珍しく亡者Aは言い淀んだ。
「俺は欲が深いからさ」
そのまましばらく黙る。私は先を促す。亡者Aは「んー」と手に持った酒を飲み干すと、思いついたように今度はべらべらと喋りだした。
「俺は欲が深えんだよ。もうなるったけ長くこの極楽を謳歌したいわけ。けどここで生温く過ごしてたら、あっという間に頭が幸せになって昇天しちまうだろ。何にも感じなくなってただひたすらに満ち足りて。そいつは面白くねえじゃねえか。まだまだ世の中楽しいものいっぱいある。知らないこともいっぱいある。俺あ全然退屈してねえからよ。だったらここに長くいるために、ぼんやりしてちゃいけねえんだよ。だからときどき往生をやりなおして、サラピンのシャキッとした状態で極楽どぼん。そしたらまた、暫くはここに居られるじゃねえか。知らねえ子どもとも遊べるじゃねえか。俺の言ってる意味、わかるかい?」
亡者Aから少し離れたところに、心細そうに佇む小さな子どもの姿を見つけて、私は頷いた。
「まあ・・・合点がいかないわけでもないですが」
亡者Aは私に「あんたは話がわかると思ったよ」としぶとい微笑みを浮かべた。そして「こっち来い、こっち来い」と様子を窺っている子どもを手招きした。
「腹は減ってないか?なんか食うか?」と亡者Aは子どもに親し気に語り掛ける。手はもう円卓の上の皿に伸びている。子どもは亡者Aの隣におずおずと近づいてきた。亡者Aから肉まんを受け取って一口齧ると、子どもの気弱そうだった表情は、花が開くようにほころんだ。
――まあ。
極楽の亡者ではあるのだろう。
地獄の亡者は誰か他人のことを考えたりしない。
この亡者Aは、欲望のままに遊ぶために、あえてつらい末期を引き受ける。何度も。かなり変わった魂だが、自分が既に生者ではないくせに生者をなるべく助けようという。それも子ども限定である。子どもを救う存在といえば地蔵菩薩だが、そんないいものではない。こんな極楽蜻蛉が地蔵菩薩であるものか。この亡者はただの勝手者だ。
ただ――。あまり苦しんでいる姿は見たくない。私の錫杖で叩き落とされる現世地獄が、次で「終わりになるように」私は毎回願う。
 だが亡者Aの旅路は一向に終わる気配はなかった。
 何度私が「これで終わりになるように」と祈っても亡者Aはしぶとく極楽で存在し続ける。私は先の「獄卒なのでは」という妄想が事実でないのなら、天使なのだ。天使ならば、極楽の亡者の魂が安からんことを願わぬ筈はない。全ての苦しみを忘れ、悩みから解き放たれることを願わぬ筈はない。
 しかし亡者Aは迷いなく私の錫杖を受ける。何度でも子どもの代わりに殺され続ける。
私たちは様々な時や場所に飛んだ。子殺しをする親はどこにでもいた。富豪だろうが貧民だろうが関係ない。一夫多妻の王家では、陰謀の中で命の危機にある子がいた。故国を追われた難民の乗る筏や、戦時下に民衆が逃げ込んだ洞穴では、子を殺しながら親が泣いていた。それら一国の危機下で起きた部類については、完全に状況を修復できたとは言えない。それでも亡者Aは「行く」と言った。僅かでも子どもの危機を先延ばしにできるのなら、行くと。
 私たちは次元を超える。そこには時間という概念すら関係ない。亡者Aと私は、親が子を殺そうとしている場面ならどこへでも行った。

 私が幾度目かの錫杖を振るったとき、眼前には数名の男がいた。男らは小さな祠に向かって一心に祈りを捧げている。祠は谷に突き出した崖の頂上に建てられていた。夜明け前の薄明るい視界の中、祠と男たちの姿は影絵のように浮き上がる。男らの口は揃って経文を唱えている。着物は粗末だがそれなりに身なりを整えている風情だ。祠と男たちの立つ崖のすぐ下は底の見えぬ谷である。祠の横には小さな子どもが一人、足首を縄で縛られて立たされていた。読経が終わると、男らの中でやや身なりの良い、紋付羽織を着た老人が子どもに言った。
「大丈夫だ。お父は今ここに居らんがお前は極楽へ行ける。もう寒いこともひもじいこともなくなるからな。きっとお父もすぐにお前に追いつくから心配するな」
 子どもはそれにこくりと頷いた。
 私は理解した。この儀式は『人柱』のそれだ。私は此処を知っている。この小さな祠を祀る村人は豊かではなかったが、二十年ごとにこれを改修してきた。その都度、村の子どもを人柱として祠横の谷底へ落とす。そうすれば村は安泰だと言い伝えられている。人柱を出した家の親は、生涯に亘って村から手厚く養われる。ごく狭い地域の古来よりの御伽噺だ。
 しかしこれも子殺しには違いない。
亡者Aは今回この子どもに宿っているのだろう。私は子どもを見た。さて親はどこだ。
 先ほど長老らしき男が「お父は今ここに居らん」と言った。おかしい。いつもならこの儀式には必ず親が立ち会い、子どもを不安がらせぬように慰めるのだ。私はそれを知っている。それに。
 私はもう一度よく子どもを見つめた。
 この子どもは。この子どもは。
 ――亡者Aではない。
 殺される側の子どもに亡者Aが同化していない。どういうことだろう。亡者Aの行方を探さねばならない。私がその場を離れようか否か逡巡していると、崖に続く山道を走って男が一人、この場に辿り着いた。「大庄屋さんっ!」と駆け上って来た男が息を切らして叫ぶ。
「・・・も、茂十が逃げやした!」
 紋付を着た老人を始め、その場の全員が男を振り返った。顔に泥をつけた男は、下帯ひとつの姿であちこち擦りむいていた。
「茂十が岩牢を破って、見張りの連中叩き殺して、麓向かって一直線に転がっていきやがって」と男は歯軋りして続ける。
「見張りの連中も茂十を何度もぶん殴ったんだが、野郎ここが馬鹿になってんのか、いくら殴っても蹴っても効きやしねえ。こりゃえれえことになったと思って、おいらぁ先に走ってきたんでやすっ」
ここが馬鹿になってる、と言いながら、男は自分の頭を叩いた。
それを聞いた現場の他の数名がどよめいた。「大庄屋さん。どうします」と何名かが焦った表情で老人を見る。注進に走って来た男が更に告げる。
「わけのわからねえことを口走ってやしたが。天狗より偉い奴を探すんだ、とか」
 老人はそれを聞くと深く溜息をつき、「そうか」とだけ言った。そして。
「子どもを落とせ。親が居らねばならぬという決まりを破れば、儀式が先延ばしになると茂十は思っておる。だが天狗様を待たせてはならん」とその場の者らに指示をした。
 子どもは。
 青白い顔をした子どもは。何人かの男たちに担ぎ上げられ。
「お父」と一言だけ残して、谷底へ消えていった。

私は翼を全開にして山を眼下に滑空した。
子どもを見送るときには、親が必ず居らねばならぬ『人柱』の儀式。この村のその儀式をないがしろにした親はどこにいるのだろう。報告に来た男は「麓に向かって転がっていった」と言っていた。「天狗より偉い奴を探す」とはどういう意味だろう。そして亡者Aはどこに居るのだろう。
私のその疑問の一つはすぐに氷解した。
麓に向かってまさしく「駆け転がっている」男がいた。走るというより転がるといった方が的を射ている。そしてそこは山道というより獣道であった。枝を折り下草を蹂躙し、口から血泡を吹きながら山越えをしている男がいた。頭にも腕にも脚にも裂傷や打撲傷を負い、満身創痍の男だったが眼力だけは鋭かった。だが空は未だ薄明。これでは足下など殆ど見えぬであろう。それでも男の貌に迷いはない。
「待ってろ。待ってろ。お父はすぐに戻るからな!」
 男はそれを繰り返し呟き続けている。谷底に落ちていった子どもの父親だ。男は「待ってろ」と言いながら崖の祠からはどんどんと遠ざかっている。
 獣道を駆け下り、男は街道に出た。
 宿場町に程近い街道を男は全身傷だらけの体でひた走る。朝早くに出立した旅人や、客を乗せた駕籠舁とすれ違った。その全てがぎょっとして男を振り返る。男の走る速度は飛脚すら抜いた。街道をゆく数多くの者を追い越す。男はひと時も休まない。陽が中天に差し掛かる。その陽が落ちる前に宿場町に入った。宿屋の若い衆や飯盛女らが、客を呼び込むのも忘れて男を見守る。男が走った後の地面には血まみれの足跡がついた。あまりの姿に目を背ける者もあった。
「どいてくれ。俺あ行くんだ。天狗より偉いお方を連れて、俺あ帰らなくちゃならねえんだ!」
 男は客引きと旅人だらけの宿場を恐ろしい速さで駆け抜けた。
 またも山道に差し掛かる。男はもう道など見ていない。まっすぐ目指す先がある。方角だけを見ている。その目が見えているのかどうかも、最早わからない。血の泡は口から項に流れ落ちて、そこで乾いた筋になっている。男は既に汗すらかいていなかった。
 私はずっと声をかけるのも忘れて、男を見守り続けた。
 男はどうやら『人柱』の儀式に逆らって、村の牢屋に繋がれていたらしい。そこをどうにかして脱出し、見張りと乱闘になった。そして散々に打ち据えられた。男も見張りを何人か殺したが、それ以上に男は複数の者らに乱暴された。村を抜け出したときには、既に傷だらけだったのだ。私が見つけたときには、既にいつ倒れてもおかしくない状態だったのだ。それゆえ私は見守った。この男が力尽き、膝をついたときでよい。私がこの男を糺すのはそのときでよいと、そう思って。
 ところが男は倒れない。尋常ではない体力で、精神力で、人間の限界を超えて走り続けている。
 私は、声をかけそびれたのだ。
 もう斃れるだろう。もう息が尽きるだろう。そう思って一両日も経ってしまった。亡者Aを探すのも忘れて。
 だが、唐突に男の最期は訪れた。
 山賊に襲われたわけでもなく、獣に襲われたわけでもなく、男は突然、疾走していた道の上から消えた。足元に地面がなかった。
 方角だけを見据えて駆け続けていた男が、これまで道を踏み外さなかったことこそが奇跡だったのだ。男の体は、子どもと同じように谷底に落ちていった。子どもと状況が異なっていたのは、その先が淵だったことだ。男の体は水中に没した。深い深い淵だった。男は水底近くまで沈み、ゆっくりと浮いてきた。閉じられた目は、流石に事切れたかと私に思わせた。入水者が全てを諦めたかのような――しかしその目は水面に浮上した途端に開かれた。
 水面から少し上空に浮かび一部始終を見下ろす私を、男は真っ直ぐに見上げた。男は仰向けに浮かび、そして私に向かって言った。
「いつまでついてきやがるんでえ。この天狗野郎」
 声はかすれていたが、はっきりと聞き取れた。
 私はその言葉を反芻した。
「・・・てんぐ」
 翼を広げて中空に浮かんだ私と、両腕を広げて水面に浮かんだ男が見つめ合った。男の鋭い眼光が私を射る。
「てめえがあの祠に棲むってえ天狗だろう。二十年ごとに村の子どもを人柱なんて名目で喰らいやがる。なんて酷えことをしやがるんだ。この鬼が。けだものが!」
――てんぐ。・・・天狗?
 私は改めて自分の姿を見回した。肩先に落ちる髪が黒い。頭に片手をやる。額の上には兜巾。もう一方の手に錫杖を持ち、背中の翼は。
 黒い。
 背で大きく広げた翼は今や、一片たりとも白い部分はない。
 全てが真っ黒である。
「惨いことしやがって。今度は俺の子どもだと籤引きで決まったって村中が言いやがる。冗談じゃねえ。俺あな、あのしきたりにはそもそも虫唾が湧いてたんだ。二十年前――俺がほんの餓鬼だった頃にも、隣のお松ちゃんが連れていかれた。確かにそのおかげで隣のおっかさんはらくに暮らせたさ。年を取って病気になっても、村中が何くれとなく面倒見てくれるから不自由はしなかったろうさ。けどな」
 男は顔を歪めた。
「隣のおっかさんは、臨終のきわになってひっきりなしに泣いてたんだ。ごめんよう、ごめんようお松ってな。この世の苦労をいっぺんに背負いこんだみてえな皺だらけの顔で、涙と涎と小便垂れ流しながら隣のおっかさんは死んだんだ。ほんの三年前のこった。それからいくらも経たねえうちに、また大庄屋さんやら村の長老やらから触れが来た。二十年目が来たってな」
 男の浮かぶ水面に、私の黒羽が一枚落ちた。
「冗談じゃねえ。ほんとに冗談じゃねえ、って俺あ思った。誰が人柱になったって俺は邪魔してやる・・・俺は叛いてやる・・・そう決めてたんだ。そうしたら今度は俺の餓鬼だといいやがる。俺は大庄屋さんに怒鳴り込んだ・・・!」
 男の息は絶え絶えだったが、振り絞るような言の葉は途切れない。
「俺は大庄屋さんに言った。あの祠にいるのはどんな神さんなんだ。大庄屋さんは言った。天狗さまがおわすってな。天狗さまは人柱を捧げることで村を守ってくださるんだってな。だから俺は聞いたんだ。天狗さまが人柱を寄越せって言ったのかって。そうしたら『そんなことを直接聞いた者はおらん。大昔の話だ。そう伝わってるんだ』って大庄屋さんが答えた・・・」
 男の話は続く。
「大庄屋さんが言うんだ。『とにかく偉い天狗さまの言い伝えだ。わしにもどうすることもできん。お前の役目は子どもを笑って見送ってやることだ』って。・・・冗談じゃねえ。子どもがこれから殺されるってのに笑って見送れるかってんだ。俺は突っ込んだ。『天狗さまより偉い神さんは誰だ』って。大庄屋さんは俺の聞き方に驚えたみてえだけどな。それでも教えてくれたよ――」
 男の喉が喘鳴する。苦しいのか。私は男に呼びかけた。
「天狗より偉い神様とは、誰だ」
 男は私の顔を見て嗤った。
「・・・天子様だよ」
 お前も知らなかったのか、と男は蔑む。
「この国で一番偉い神さんだ。宮さまだよ。てんしさま。俺あ、そのてんしさまを連れてくるんだ。そして天狗に説教してもらうんだ。てめえのやってることは間違いだ。そいつは・・・とんでもなくひでえことだって」
 ひどい。酷いのか。
 私は男を見下ろしたまま言った。
「子どもを人柱として捧げた家の親は生涯大事にされるのではないのか。村の全員がそう話していた。村人にとってそれは誉れであり、二十年に一度という滅多とないその機会に恵まれることは、あの貧しい村では大変に有難いことだと――それは酷いことなのか」
男が血の混じった水を吐いた。吐きながら男は喚いた。
「酷えに決まってるだろう!俺の子どもはまだたった三つだぞ。これからいくらだって楽しいことがあるんだ。旨いものも食わせてやるんだ。それを――あんな、たった三つで谷底に投げちまうなんて、そんなべらぼうがあるか!」
 男の顔には既に血の気がなかった。
「俺は『てんしさま』に頼むんだ。『てんしさま』に会うんだ。そんでもって――」
 酷い。
 酷いことだったのか。私は今までそんな惨いことをしてきたのか。何十年も何百年も。
 男の顔がぼやけ、赤茶けた髪の亡者Aの顔が重なる。
 亡者A。そこに――。
 いたのか。
「てんしさまに――」
 男の言葉はそれで尽きた。

 私たちは来てはいけないところに来てしまったのだ。

 亡者Aは亡者Aの、本当に生きていた頃の彼の姿に。
 私は彼の『てんしさま』になる前の天狗の姿に。
 全てが始まったこの場所に。
 私の背に黒々と生えた翼の、その羽根の一枚一枚が、はらはらと水面に落ちていった。
 許してくれ。知らなかったのだ。私はただ、村人が私に向かって祈るから。お願いしますと頼むから。それが村の皆にとって良いことなのだと信じて疑わなかったのだ。
 男は死んだ。
 今、亡者Aと私は次元を抜ける狭間にいる。
 いつもなら亡者Aは私に軽口めいた問いを投げかける。だが亡者Aは半眼のまま動かない。亡者A。何故またここに来てしまったのだ。お前の懊悩は然程に深かったのか。ありとあらゆる世界の、親から殺される子どもの痛みを肩代わりしながらも、それでもこの一番最初の地獄を再び自身に与えるほどの罰を、お前は自分に望んでいるのか。
 地獄で罰される魂を罰するのは己自身の良心。亡者Aにそう告げたのは私だ。しかしお前の良心はお前自身に厳しすぎる。
 それとも、私を罰したいのか。
「許して――くれ」
 私は言葉に出した。水面に浮かんだままもう何も語らない亡者Aに言葉を紡ぐ。
「私を見ろ。――もう一度・・・私を見てください。私はまだあなたに一言も詫びていません。何も告げていません。私はあのときここであなたの死骸に約束したのです。『お前の村の人柱はお前の子で最後にする。親が子を殺すなどということはお前たちで終わりにする』と。聞こえぬのですか。私が見えぬのですか。私の姿が」
 背中から涙のように無数の羽根が零れる。
 水面が舞い散る羽根で黒々と覆われてゆく。
 山の端に名残の陽が消えてゆく。こんな日暮れだから。私の姿がこんなに黒いからお前にはもう見えぬのか。それならばいっそ。
 私は淵の上に浮きながら、自分が鴉天狗である自意識を捨てた。
 天狗であることを忘れることで、私の翼からは色彩が抜けた。黒髪は白髪と化し、額の兜巾は消失した。天狗の神通力を全て捨て去った私は、ただ飛翔するだけのあやかしになった。亡者Aの体に、今度は真っ白な羽根が降り注いでいく。
 白い羽根が一枚、亡者Aの頬に触れた途端。
「――」
 亡者Aが微かに吐息を漏らした。
亡者Aは不意に覚醒した。
 驚いた瞳で私を見る。
「なんだ――あんた、天狗じゃなくて」
 降り積もった羽根は完全に水面を覆っている。亡者Aは最早水面に浮いているというより、私の羽根に包まれて横たわっているような風情になった。
 亡者Aは安堵したように微笑んだ。

「てんしさま――だったのか」

 私の中で私の記憶が闇色と共に抜けてゆく。
私は亡者Aの最期を見届けたとき、確かにこの場所で祈った。
何もかも忘れてしまえば、この男は極楽へ行けるだろう。そして穏やかになったその魂は程なく消滅するだろう。平和に安らかに。天狗と崇められた私も神通力を失えばただの妖怪。人の信心を失えばさして永らえもせぬだろう。この男が消滅するまでの僅かな時間、その魂を見守ることくらいは許されようか。
私も。
 私も私を忘れて、お前の『天使さま』になっても許されようか。
 天狗の記憶が消える寸前、私は確かにここでそう祈った。
 陽は完全に没した。
 そして私は私を忘れ、男は亡者Aとなった。

道が開いた。
亡者Aと私は、共に再び極楽に戻った。
「おい。また黒羽生えてんぞ」
と、戻った途端に、亡者Aが私の羽根をむしった。人間が「白髪はえてんぞ」というのと同じ口調で。同時に背中に衝撃。
私は「痛いと言ったでしょう。やめてくださいと何度言えば」と文句を言いながら、真っ白な翼の中に一枚だけ生えた黒い羽根をむしられる。
むしられながら私は考える。これは確かに人間でいうところの白髪なのかもしれない。いつかこの背中の翼が真っ黒になり、白い髪も全部黒くなってしまうかもしれない。白い翼と白髪の天使が、黒い翼と黒髪になったら――そうなったら私はどうなるのだろうか。
何故か私はいつもそこで思考が停止するのだ。
そして違うことを考える。
 この亡者Aは一体何者だろうかと。
 極楽蜻蛉で地蔵菩薩で自堕落な呑兵衛。
 亡者Aの戻るいつもの豪奢なソファと円卓の横に、今日も心細げな子どもの姿がある。亡者Aはいつものように子どもを招き、ご馳走を振る舞い、力一杯遊ぶ。私はそれを常よりも切ない思いで眺めていた。遊びながら亡者Aは、見守る私に気付くと、言い訳のように呟いた。
「どっかに――俺の子どもがいねえかと思ってよ」
 いくらか、それは寂しげに。
「あなたは子持ちだったのですか」と問う私を、亡者Aは意味ありげに見つめた。
「言っただろう。『酷え死に方したことだけは覚えてる』ってな」
 停止した思考を、私は部分的に弄られた。記憶の蓋を揺すられた気がして私が苦悶に眉を寄せた様を見やり、亡者Aは手を振った。
「あんたが覚えてねえんなら、いいんだよ」
 私が。私が何かを忘れているというのだろうか。
 いや、次元と次元の狭間。刹那の記憶を忘れているのは亡者Aのほうの筈だ。酷い死に方。亡者Aは何度も子どもの身代わりに殺される。
 亡者Aは私の背に手を伸ばした。
「悩むな悩むな。また黒羽生えてんぞ」と。
 ぶちり。背中に衝撃。私はまた涙目で抗議する。
「もう何度も言ったでしょう」
 心から楽し気に子どもと遊ぶ亡者Aに。
「本当に――」
 私の羽根をむしるのも。
 極楽現世の往復も。
「これで終わりにしてください」と。

                (了)

ご覧いただき、ありがとうございました。この作品は、2021年第29回鈴鹿市文芸賞で奨励賞を受賞したときの作品です。

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