こちらは二次創作です。富永総合病院のスリッパがモチーフです。pixivの縦読み機能をお使いになられる場合は、次のページからどうぞ(内容は同じです)。
台悠参線
あの少女は気がふれているのだろうと思った。
車両の中に、保護者らしき人物は見つからない。少なくとも近くにはいない。駅を発車してから何分も経つのに、たったひとりで槐色の席に座し、床に届かぬ脚をぶらぶらさせている。
全くサイズの合っていない大きなスリッパを履いて。
どこかの施設の備品をそのまま履いてきてしまったのか。
それにしても子供用はなかったのだろうか。あれでは立ち上がって歩き出したときに危ないのではなかろうか。余っている踵の部分を誰かに踏まれでもしたら転んでしまう。誰か教えてあげないと。
私は視線だけで周囲を一瞥する。
やはり保護者がいない。
私は何かすべきだろうか。声をかけたほうがいいだろうか。
通路を挟み、正面に座っているのは私だ。
横並びの座席には余裕があり、立っている者もいるが、それは次の駅で降りる目算なのか、それとも電車の中では座らないと決めている性分の持ち主くらいで、ほとんどの者が銘々の姿勢で座席の揺れと同衾している。
少女に一番近い位置にいるのは私だ。両者間に通路があるとはいえ、もしかすると、周囲からは私が父親だと思われているかもしれない。年齢的にはどうなのだろう。私がもし結婚していたら、これくらいの年の子供がいたのだろうか。これくらい、といってもこの少女の年齢が正確に解るほど私には知識も判断力もない。
二本足では歩くだろうが、就学しているのかどうかは想像がつかない。とにかく、履いているスリッパが大きい。そしてこのスリッパは外出用ではない。
きっと、気がふれているに違いない。
それとも子供とはそんなものだろうか。
車掌が巡回に来ないものか、と私は頸を向けた。車両連結部の扉は開かない。再び子供に目を戻すと、忽然と私の目の前にいた。
おかっぱ頭の少女は足音もさせずに席から降りてきたらしい。そして私に向かってまっすぐ歩いて来たらしい。それくらい僅かな時間しか、私は彼女から目を離していない。
少女は私を見上げている。子供の表情など読めない。
「お見舞いいってきたの」
少女が突然しゃべったので、私は鼻から息を吸い込んだ。
少女の背後で、のどかな田園風景が右の車窓から左の車窓へ漸進している。列車が電柱を振り払っていく度に、ばととん、ばととん、と規則的な動力が伝わる。
駅と駅の間が長いなあ、と感じた。
私は一瞬、そのように思考が逃げていた。
「お見舞い、か」
我にかえってそう答えるのが精いっぱいだった。少女は誰かのお見舞いに行き、その帰りなのかと私は理解した。大きなスリッパを履いている理由の想像もついた。
「病院にいってきたのかい」
私は続けて尋ねた。少女はうん、と肯定した。案外、話が通じるのかもしれない。
気がふれているのではないかもしれない。
御せぬ安堵を私が些かに感じた後、また少女がしゃべった。
「おかあさん」
おかあさん?
「しんじゃうかも、しれない」
列車の左右に巨大な鉄格子が飛び掛かった。僅かに遅れて轟音が降る。鉄格子は高速で左右を次々と駆け抜け、それに連動して音も繰り返される。変化する振動。声を出さずに泣く子供。
この少し大きめの河を渡るために、次の駅までが遠いのだとわかった。
おかあさんの、具合が悪いのか。
おかあさんが、しんでしまうかもしれないのか。
だからこの子は、驚いて病院のスリッパのままで飛び出して来てしまったのだ。気がふれている一歩手前なのだ。
かわいそうに。
私はゆるゆると片手を上げて。
列車が鉄橋を渡り終えるまで、私はその子の頭を撫でていた。何度も何度も撫でた。子供は静かにしくしくと泣いた。
河を渡り、車内が再び静かになった頃、連結部の扉が開いた。そちらから跫音が聞こえたが、私はもう少女から目を上げなかった。
ゆっくりと誰かが通路を歩いてくる気配がする。車掌が来たのかもしれない。理由を言って引き渡そう。私が乗ったのと同じ駅から乗ったに違いない。あの駅の近くには大きな総合病院があるのだ。調べてもらえば身内が判明するだろう。
人物は私たちの座席の横で立ち止まった。私が話しかけるより先に、その人物が。
「よかった、ここに――」と大きく息を吐いた。
私が顔を上げると、白衣を着た男と目が合った。柔和な微笑を浮かべて、男は「探したんですよ」と言う。ゆったりとした風情は纏っているが、額に汗が滲んでいる。私は「嗚呼」と諸々を察した。この医師の顔は知っている。
「大体、事情はわかりましたよ。富永先生」
私はそう言って、男に薄く微笑んだ。
「病院のスリッパを履いていましたから。母親が入院しているんでしょう?心配して泣いていましたよ」と再び子供の頭を撫でた。
医師は少しだけ真顔になり、そしてまた笑顔になると、少女の目線にしゃがみ込んだ。
「お母さんは大丈夫だよ。手術をすれば病気は治ります。来月にはおうちに帰れるよ」
あたたかく安心させるプロの医師の声だ。少女は涙をぬぐった。「ほんとう?」と問う子供に当たり前だが「もちろん」と医師は答える。それがどんなに可能性の低い事実でも。
少女はこの医師に連れられて病院へ戻るだろう。
一安心だ。
だが子供は俄かに私の手を「ギュッ」と握り締めた。
「おじちゃんも、かえろうよ」
わけがわからず固まっている私の顔を見た後、少女は瞳を私の足元まで下ろした。
「ほんとは、はいてきちゃいけないんだよ、このスリッパ」
私の足は、茶色で素っ気ない客用スリッパに突っ込まれている。少女の足下と全く同じだ。そこには「富永総合病院」と印字されている。
子供が。
この少女がまっすぐ私のところへ歩いて来た理由。
それはこれか。
少女の足下と同じスリッパ。富永総合病院。
少女の小さな足には大きく、成人男性である私の足には程好い寸法だが、無論どちらも列車の中で履いている不自然さは同じだ。これをたよりに、少女は不可思議な仲間意識を私に見出したのであったか。
気がふれて。いるのではなく。そうではなくてそれは。
白衣の医師が、今度は私に向けて言った。
「貴方のお母様のご病気は確かに難しいものです。しかし今すぐにどうこうというものではありません。上手に付き合っていくことで、何十年も人生を楽しんでいらっしゃる方もおいでです。先ほどは説明不足で申し訳ありませんでした」
医師は私に頭を下げた。
違う。
違うのだ。
私は静かに首を横に振り始め、それは段々と大きくなり、やがて脳震盪を起こしそうなほどに激しくなった。無言で、全力で、私は否定し続けた。
違う。違う。違う。
途中で話が聞いていられずに逃げ出したのは私の方だ。説明不足などではない。私が最後まで聞けなかったのだ。恐ろしかったのだ。小さな子供のように、この少女と同じように。私は私の母の病状から逃げたのだ。なんと情けない人間だろう。なんと不甲斐ない息子だろう。
気がふれていたのは、私の方なのだ。
「先生――」
すみません、と片手で顔を覆う私のもうひとつの手を、少女がより強く握った。少女の手はあたたかかった。
「おじちゃん。おじちゃんも、おじちゃんのおかあさんのところへ、もういっぺんいく?」
少女と同じ高さに屈み込んだままの、大の男である私と医師。異様な光景かもしれない、と思ったが私は「うん。いくよ。今からもう一度会いに行くよ」と泣き続けた。
医師はじっと屈んだまま、私が泣き止むのを待ってくれた。
車内にアナウンスが降り注いだ。
間もなく、次の駅に到着するのだ。
(了)
ご覧いただき、ありがとうございます。グッズが出たときに思いついたテーマです。富永総合病院のスリッパをテーマに、いくつか短編が書けたらいいな、と思っています。